Gressive Premium vol.05 Saxon Watch Story ザクセン時計製造の源流 A.ランゲ&ゾーネの170年
1845年、グラスヒュッテに時計工房を設立し、この地に時計産業の基盤を築いたアドルフ・ランゲ。彼はドレスデンで時計技術の基礎を学んだ後、ヨーロッパを巡る修行の旅に出た。そのとき彼は各地で学んだ最先端の時計技術を一冊のノートに克明に記録する。これがアドルフ・ランゲの「旅の記録」であり、ここに記された当時最先端の時計技術が基盤となり、19世紀の終わりには高級時計の生産地としてグラスヒュッテは世界に認められる存在となった。
フェルディナンド・アドルフ・ランゲ(1815~1875)は、ヨーロッパ、特にパリでの修行を経て獲得した最先端の知識と技術を駆使し、グラスヒュッテに時計産業を根付かせた。
創業当時のグラスヒュッテにおけるA.ランゲ&ゾーネの工房。高度な技術と先進的な思想を持ったアドルフ・ランゲだったが当初は生産性が上がらず苦労したと言われている。
足踏み式の旋盤が導入された初期のランゲ工房の内部。それぞれの工程で専門の職人が分担するシステムや足踏み式の旋盤が導入され、部品の加工精度が飛躍的に向上した。
その代表例が、1898年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859-1941)がオスマントルコ帝国初訪問の際、スルタン(君主) アブドゥル・ハミッド2世に贈呈した豪華な装飾を施した懐中時計である。
この時計はヴィルヘルム2世がアドルフ・ランゲに注文したものであり、ケースの表蓋はダイヤモンドで縁取られた皇帝自身のエナメル肖像画で飾られるという、超ハイグレードな仕上げが施されていた。
さらに1900年のパリ万博では、エミール・ランゲが審査員として参加。その際、彼はケース表蓋にパリを背景として女神ミネルヴァが描かれた「百年紀記念トゥールビヨン」を参考出品。この時計は技術の進歩と職人の技がもたらした世界平和のシンボルとしてパリ万博の観覧者を魅了し、その功績を讃えられてフランスの勲章“レジョンドヌール騎士十字章”を授かることとなった。
そして1902年、ウィーンのハインリッヒ・シェーファー氏の依頼により、「グランド・コンプリケーションNo.42500」が製作される。
この超複雑時計は完全なる一品製作であり、大小のハンマー打ち機構(グランドソヌリとプチソヌリ)、ミニッツリピーター、スプリットセコンド・クロノグラフ、フドロワイヤント、60分積算計、ムーンフェイズ表示付き永久カレンダーが搭載された。このモデルはA.ランゲ&ゾーネ史上、もっとも複雑なムーブメントであるが、2010年にA.ランゲ&ゾーネ自らの手によって修復が完成。さらに2013年には7年の開発期間を経てまったく同レベルの超複雑機構を腕時計に搭載させた記念碑的モデル「グランド・コンプリケーション」が発表された。
また1930年には、アドルフの息子リヒャルト・ランゲが、シーメンス社で働く2名の技術者が発表した論文を読み、ベリリウムをわずかに添加することでヒゲゼンマイの弾力性を改善することを着想。彼はただちに「時計ゼンマイ用金属合金」という特許を出願した。この技術を用いたヒゲゼンマイは、後にスイスの時計技師リヒャルト・シュトラウマンによって「ニバロックス・ヒゲゼンマイ」と呼ばれ、今も多くの時計に採用されている。
このような高度な技術を育んだグラスヒュッテだが、第二次世界大戦後は東ドイツに組み込まれ、高級時計の製造は停止してしまう。その一部始終を体験したのが他ならぬアドルフ・ランゲの曾孫ウォルター・ランゲ氏である。
彼の記憶によれば、1945年5月7日、グラスヒュッテに連合軍が迫ったため工場は閉鎖され、翌朝6時に爆撃開始。主要な建物にも爆弾が落ちて一切が破壊され、5月8日にドイツは終戦を迎えるのである。
やがて1948年、A.ランゲ&ゾーネは国有化されるが、修理部門で働くランゲ氏は労働組合への加入を拒否したため鉱山労働が命ぜられた。これを回避すべくランゲ氏は知人の車でベルリンへ向かい、そこから森林地帯の国境を越え西側へ逃亡したという。
1951年、グラスヒュッテの7つの時計会が統合され「GUB(グラスヒュッテ・ウーレン・ベトリーブ)」が設立。その7社のひとつがA.ランゲ&ゾーネだが、これによりランゲの名がグラスヒュッテ製時計の文字盤から消えた。この時点でグラスヒュッテで高級時計が作られる日が再び巡ってくるとは、誰も予想しなかっただろう。
ところが1989年、ベルリンの壁が崩壊し、1990年10月3日にドイツが再統一。ランゲ氏はグラスヒュッテに帰還し、A.ランゲ&ゾーネの復活を実現する。この新たなランゲの登記日は、曾祖父が開業した1845年12月7日にちなみ1990年12月7日が選ばれた。
やがて1994年、新生ランゲの最初の4つのモデルが完成。それが『ランゲ1』、『アーケイド』、『サクソニア』、『トゥールビヨン“プール・ル・メリット”』である。
このA.ランゲ&ゾーネの劇的復活の、もうひとりの立役者がギュンター・ブルムライン氏だ。スイスのIWCおよびジャガー・ルクルトのCEOだったブルムライン氏は、ランゲの代表も兼任し、ウォルター・ランゲ氏らと協力してグラスヒュッテ製腕時計に新たな価値を創出した。その結果、ランゲの新作は瞬く間に話題となり、1996年には東京・青山に日本のブティック第1号が開店。その後、日本各地の有名時計店での扱いが始まり、ドイツ製高級時計として不動の地位を獲得した。
また、1996年から1998年のバーゼル・フェアまでは、ブルムライン氏が役員を務めることからIWCのブースで新作発表を行ったが、1999年には自前でブースを確保。2000年にはIWC、ジャガー・ルクルトと共にリシュモン グループ傘下となり、2002年からジュネーブのSIHHへ新作発表の場を移行し、さらにそのステイタスを高めたのである。
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1868年にはアドルフの息子リヒャルトが工房の共同経営者となり、名称も“A.ランゲ&ゾーネ”(A.ランゲと息子たち)と改称。この懐中時計は簡素だが美しく仕上げられたその時代の作品。
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1994年10月24日に行われた新生A.ランゲ&ゾーネの製品発表会。世界中の専門誌にランゲについての記事が掲載され、グラスヒュッテが再び注目された。左から社長のブルムライン氏、ウォルター・ランゲ氏、副社長ヘルムート・クノーテ氏。
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ウォルター・ランゲ(1924~)は、アドルフ・ランゲから数えて四代目の当主。彼の時計師としての技術とランゲ復興にかける情熱により、A.ランゲ&ゾーネの復活が実現した。
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ギュンター・ブルムライン(1943~2001)は、IWCやジャガー・ルクルト、そしてA.ランゲ&ゾーネの復興と発展に寄与し、時計界の動向に多大な影響を与えた。2001年秋、病により急逝。
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グラスヒュッテの一角を占めるA.ランゲ&ゾーネ本社。この建物は1873年に完成し1945年に一部が破壊されるまで使われたが、2001年12月7日、A.ランゲ&ゾーネが正式に復帰した。
構成:田中克幸(Atelier ADJET) / Direction:Katsuyuki Tanaka
取材・文:名畑政治 / Report&Text:Masaharu Nabata
写真:高橋和幸(PACO) / Photos:Kazuyuki Takahashi
協力:A.ランゲ&ゾーネ / Special thanks to:A.LANGE&SÖHNE
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