Grand Seiko日本屈指の本格腕時計組立工房『グランドセイコースタジオ 雫石』現地レポート 01
マニュファクチュール・グランドセイコーの基礎知識
“東洋の時計王”服部金太郎が築いた
時計王国「セイコー」の基盤
この20年ほど、時計界で重要なキーワードが「マニュファクチュール(Manufacture)」という言葉。これは一般に「工場」を意味するフランス語だが、時計界では「自社で時計を一貫生産する工場および会社」を意味する。
この自社一貫生産工場は、スイスでも珍しい存在だったが、1990年代後半から高級機械式時計が本格的に復興したことで、改めて注目され、ムーブメント専業メーカーからエボーシュ(ベース・ムーブメント)を購入して組み立てや調整を行う「エタブリスール」から脱却し、マニュファクチュールへ移行するメーカーやブランドが次々に現れた。
そんな中、以前からマニュファクチュール体制を維持し、時計製造を続けてきたのがセイコーである。今回、我々が訪問した『グランドセイコースタジオ 雫石』も、世界的に見ると、極めて珍しい本格マニュファクチュールの大きな一角を占める。
そこでまず、この『グランドセイコースタジオ 雫石』がどのような経緯で誕生したのか、歴史的背景から説明したい。
この『グランドセイコースタジオ 雫石』の原点を辿ると、それは服部金太郎というひとりの起業家に行き着く。
1860年(万延元年)、江戸の京橋采女(うねめ)町で生まれた服部金太郎は、13歳で時計商を志し、日本橋の亀田時計店に丁稚奉公に入る。その後、下谷区黒門町(現在の台東区上野)の坂田時計店などで修行を重ね、1877年(明治10年)9月1日に京橋采女町(現在の銀座5丁目付近)の自宅に『服部時計修所』の看板を掲げて独立を果たす。
やがて金太郎は1881年、正式に『服部時計店』を創業し中古時計の修繕と販売を主体として営業を開始。横浜の外人商館へ通って外国製時計を仕入れ、その卸売と小売りを始めた。
この時、金太郎は従来の慣習に囚われない画期的な取引で事業を進展させた。それは江戸時代からの習慣であった盆暮れ払いの掛け売りを廃止し、30日以内にきちんと代金を支払うというもの。これによって『服部時計店』は外人商館の信頼を獲得したのだ。
天才時計技師を迎えて実現した
時計製造部門『精工舎』の設立
時計の卸と小売で事業を進展させた服部金太郎が次に目指したのは、時計(掛時計)の自社生産だった。
1892年5月に金太郎は本所区石原町(現在の墨田区石原)に時計技師の吉川鶴彦を迎えて直営の時計製造所『精工舎』を設立。同年7月にはアメリカ式ボンボン時計(掛時計)の製造に成功した。
やがて1893年12月、手狭になった石原町の工場から本所区柳島(現在の墨田区太平町)に工場を移転。同時に5馬力の蒸気機関も導入して生産を拡大した。
新工場に移った『精工舎』は懐中時計の製造を目指し、1895年、ついに国産初の懐中時計『タイムキーパー』の生産に成功。時を同じくして中国への掛時計の輸出も始まり、1901年、『服部時計店』は日本最大の時計営業会社の地位に上り詰め、やがて服部金太郎は“東洋の時計王”と呼ばれるようになった。
この時、服部金太郎と精工舎は、画期的な取り組みを行っている。それは、すでにスイスにおいて一般的だった「水平分業生産方式」、つまりムーブメントを始めとする時計部品を多くのメーカー(サプライヤー)が分業して生産し、それを集めて組み立てから調整をおこなって出荷する方式ではなく、部品の製造から組立まで一貫して行う「垂直統合生産方式」のマニュファクチュールを志向したことだ。
その上で金太郎は部品を製造する工作機械まで自社生産を目指し、「ピニオン自動旋盤」を自社開発。こうして精工舎はマニュファクチュールとしての一貫生産体制を確立し、自社製の工作機械によって精度と生産性を大幅に向上させた。
そして1913年(大正2年)、『精工舎』は国産初の腕時計『ローレル』を発売し、新しい時代へ先鞭をつける。
それまで欧米でも腕時計の普及はあまり進んでいなかったが、1914年に始まる第一次世界大戦で多くの兵士が腕に付ける時計を着用したことで本格的な普及が始まった。その新時代の到来を見越しての『ローレル』の発売は、まさにタイムリーなものだった。
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