Gressive Impression 2017年SIHH会場に届いた突然の訃報
2017年SIHH会場に届いた突然の訃報
2017年1月。ジュネーブで開催されている高級時計の祭典「SIHH」を取材中の我々に、悲しい知らせが届いた。それはランゲ家の四代目当主であり、世界有数の高級ウォッチ・メーカーとして知られるA. ランゲ&ゾーネの復興に尽力したウォルター・ランゲ氏死去の報であった。
ウォルター・ランゲ氏は1924年6月29日、ドレスデンに生まれた。国民学校(8年制の初等学校)卒業後、家族の伝統に則って時計師としての修行を開始。オーストリアで基礎的な技術を習得した後、グラスヒュッテに戻ったランゲ氏は、アルフレッド・ヘルウィグが教授を務めるグラスヒュッテ時計学校で、より高度な時計技術を習得。途中、軍役につくなどのブランクはあったが、18歳でその修行を終える。
だが第二次大戦末期の1945年、グラスヒュッテのA. ランゲ&ゾーネの工場は空襲で甚大な被害を受け、戦後は東独政府によってすべての設備が接収され、A. ランゲ&ゾーネとしての活動は停止。工場への立ち入りさえ禁じられる。まさにA. ランゲ&ゾーネは存亡の危機に陥ったのだ。
A. ランゲ&ゾーネ再生の模索
そこで1948年、ランゲ氏は西側への逃亡を決意。彼が逃れたのはドイツ西南部シュバルツバルト地方の入り口にあたるフォルツハイム。この町はドイツにおけるもうひとつの時計と宝飾の生産地であり、ランゲ氏はここを拠点にランゲ復活を模索するが、軌道に乗せることは難しかったようだ。
やがて1970年代半ば。ランゲ氏は故郷グラスヒュッテを、逃亡後はじめて訪問。この地の人々との交流を絶やさぬようにと定期的に訪れるようになった。
そして1989年11月10日、ベルリンを東西に隔てていた壁が破壊され、ドイツは長い分断の時代(壁ができてからは28年)に終止符を打ち、再統一を果たす。
これに即座に反応したのが、他ならぬランゲ氏だった。彼はドイツ人でありスイスの高級時計メーカーの経営に携わるギュンター・ブリュームライン氏(1943~2001)をパートナーとして名門A. ランゲ&ゾーネの復興を目指す。
そして1994年10月24日。ドレスデン王宮において、A. ランゲ&ゾーネは復活後、初のウォッチコレクションを発表した。
大成功を収めた復活後最初のコレクション発表会
1994年に発表された新生A. ランゲ&ゾーネのコレクションは大きな反響を呼び、ドイツ、スイス、オーストリアにある12の特約店の間で、最初に出荷可能なわずか123本の製品は争奪戦となったという。
とりわけ、この時に発表された「ランゲ1」はオフセンターの時分表示、大型のアウトサイズデイト、パワーリザーブ・インジケーターを見事なバランス感覚で装備することで大きな評判となり、その後の時計界に決定的な影響を与えた。
また、“新モデル開発にあたっては新型ムーブメントを開発する”というA. ランゲ&ゾーネの基本哲学もスイス時計に多大な影響を与え、その後、自社開発ムーブメントを軸とする“マニュファクチュール・ブーム”のきっかけともなった。
この最初のコレクション発表会の印象を、ランゲ氏は後にこう語っている。
「こういう展開になるとは予想していませんでした。これ以上うまく運びようがないほどです。(中略)ゆっくり祝うほどの時間はありませんでしたね。私たちはイベントが終わるとすぐに、また仕事に取りかかりました」
“休む間も惜しんで開発に没頭”したランゲ氏。この言葉がウォルター・ランゲ氏の人柄を端的に表している。
取材・文:名畑政治 / Report&Text:Masaharu Nabata
写真:高橋和幸(PACO)、堀内僚太郎、奥田高文 / Photos:Kazuyuki Takahashi(PACO), Ryotaro Horiuchi,Takafumi Okuda
協力:A. ランゲ&ゾーネ / Special thanks to:A.LANGE&SÖHNE
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