BREITLING LEGEND ブライトリング存亡の危機に 白羽の矢が立てられた男の決断
長い歴史と伝統を誇る時計会社でも、危急存亡の秋(とき)が訪れることがある。そこで問題となるのは、窮地を救い歴史と伝統を引き継ぐ者の資質である。
1884年に創業したブライトリングは、三代目当主ウィリーの時代に、その存亡のときを迎えた。きっかけとなったのは1970年代のクオーツ時計の台頭(クオーツ・クライシス)である。この未曾有の危機に対し、ウィリーは会社の閉鎖を考えるが、最終的に彼は有能で熱意溢れる人物に会社を託すことを選択した。
彼が白羽の矢を立てたのが、アーネスト(パパ)・シュナイダーである。
彼は戦中から戦後にかけて、スイス軍で無線通信や情報処理技術の教官を務めていたマイクロメカニズム(精密機械工学)とエレクトロニクス(電子工学)のエキスパート。また実家がシクラ(SICURA)という時計メーカーを経営していたが、経営危機に陥った時、その立て直しに成功。つまり先端技術と時計会社の経営に長けた人物であり、この上ない人選であった。
しかし、ブライトリングの経営権譲渡のオファーを受けたシュナイダーは、ウィリーの「ブライトリングの機械式クロノグラフの伝統を受け継ぐこと」という経営移譲の条件に大変悩むことになる。
というのも、エレクトロニクス専門家としての彼は「このまま電子工学が発展すれば、機械式時計は過去の産物になるだろう」と考える一方、パイロットでもある彼はブライトリングの機械式クロノグラフを数本所有し、実は時計メーカーとしてのブライトリングを非常にリスペクトしていたのである。
さらにウィリーはこのようにも述べていた「ブライトリングはプロのための計器である」と。
この言葉を受けてシュナイダーはブライトリングの経営を引き継ぐことを決断。
時流を考えれば電子工学を投入した時計開発と生産に進んでも不思議はないが、シュナイダーは違った。彼は機械式と電子工学、両輪体制で時計開発の道を選んだのである。ここが他のメーカーと異なる点であり、量産時計としてこれを実行したことが、パパ・シュナイダーの希有な才能と努力家としての資質を証左している。
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実家が経営していたシクラのカタログ。シクラは太陽電池などの特許で1970年代にはハイテクウォッチを次々と発表。一時期はスイス国内に3つの工場を持ち従業員は350人、最盛期には年間100万本の時計を生産した。
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シクラの本社はビエンヌ北東部に位置する町グレンヘンに存在した。パパ・シュナイダーがブライトリング事業1本に絞った後、社屋はブライトリングの本社に大改修され、現在に至っている。
おそらくブライトリングの経営権を移譲された頃のパパ・シュナイダー。背後にヨットのスケールモデルが置かれているが、彼はマリンスポーツもこよなく愛し、第1回太平洋横断レース優勝者エリック・タバリーと親交があり、多くのマリンスポーツ・モデルを発表した。
1983年にフレッチェ・トリコローリが制式採用した公式クロノグラフ。これをベースに翌1984年のバーゼル・フェアには「クロノマット」が一般用モデルとして発表された。3時位置に同チーム名とトリコロール・カラーのエンブレムが施されている。“P.A.N. (Pattuglia Acrobatica Nazionale)”とは空軍エアロバティックスチームの意味。頑強でスタイリッシュなルーロー・ブレスレットも特徴のひとつだ。
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世界一華麗な演技との定評があるフレッチェ・トリコローリ。意味はイタリアの国旗色である赤・白・緑の「3色旗の矢」。創設は1961年でベースはイタリア北東部のリヴォルト空軍基地にある。
1982年、フレッチェ・トリコローリの公式クロノグラフの公募に対し、シュナイダーは新型機械式クロノグラフの開発に没頭する。写真は彼直筆のドローイングで、ビス留めのライダータブや回転ベゼル、丸みを帯びたリューズやプッシュボタンなど詳細に描かれている。
構成:名畑政治 / Direction:Masaharu Nabata
文:田中克幸 / Text:Kastuyuki Tanaka
写真:高橋和幸(PACO)、 堀内僚太郎/ Photos:Kazuyuki Takahashi(PACO), Ryotaro Horiuchi
協力:ブライトリング・ジャパン / Special thanks to:BREITLING JAPAN
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