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Louis Moinet天才の偉業を掘り起こした個性派独立ブランド「ルイ モネ」の現在 03

ジャン=マリー・シャラー氏追悼
埋もれた時計師を現代に蘇らせた
稀有なアイデアマン

世界初のクロノグラフ「コンター・ドゥ・ティエルス」をモチーフに現代の技術を導入して開発されたルイ モネの腕時計クロノグラフ「1816」ムーブメントの組み立て。ゴールドカラーの地板とブリッジに鮮やかなコントラストをなす歯車やレバーに機械式時計ならではの魅力が溢れている。

Jean-Marie Schaller
ジャン=マリー・シャラー(1959~2026)

ルイ モネの前CEO兼クリエイティブディレクター。1959年、スイス・ジュラ地方のコルバン生まれ。ビジネスカレッジを優秀な成績で卒業後、ロンドンやニューヨークでマーケティングや広告等の知見を深め、ローザンヌやニューシャテルのマネジメントスクールで教師を務める。その後、米国ミシガン州デトロイトの自動車業界を経験した後の1986年にスイスのシイベルへグナー社に入社。オメガのスイス向けマーケティングやダニエル・ロートの世界展開に関係する。1994年、シイベルへグナーを退社しペルレを設立し、マネージングディレクターに就任。ペルレは「ウォッチ・オブ・ザ・イヤー」の5部門を獲得する。1999年から2000年まではウォルサム・アンド・ペルレ社の国際コンサルタントに就任、2000年からはラコステウォッチの取締役会メンバーで、マーケティングディレクター就任。2002年にはルイ モネの商標を取得。2004年、45歳の頃に独立系ブランド「ルイ モネ」を創設する。2026年5月16日逝去。享年66。


 ルイ モネのCEO兼クリエイティブディレクターである、ジャン=マリー・シャラー氏の逝去を知ったのは2026年5月21日(木)、時計総合展示会「TIME UNITED」の会場だった。教えてくれたのは、ルイ モネの日本総代理店ジーエムインターナショナルの高塚茂夫氏である。 実際、逝去されたのはその5日前の5月16日。彼は1959年、スイス・ジュラ地方のコルバン生まれ。享年66。

 その場にいた私も名畑政治編集長も、一瞬声が出なかった。若すぎる。同時に私は、最初に彼に会った時のことを思い出そうとした。確かあれは1995年の春のバーゼルフェア(当時の呼称)のこと。


「ペルレ」というユニークな時計の存在を教えてくれたのは松山 猛氏である。「ダブルローターでね、文字盤側にもローターがあってちょっと面白いよ」。彼の言葉でブースを訪れたという成り行きだったと思う。Hal.1.0の奥の方に佇む、こじんまりとしたブースに現れたのが、ジャン=マリーだった。ヨウジヤマモトのスーツを着た彼はペルレの由来など色々と話をしてくれた。アブラハム‐ルイ・ペルレ(1729~1826)は、1770年から1776年にかけて最初の自動巻き機構を開発した時計師。1995年当時ではもちろん初耳の事だ。1998年の工房取材後にまとめた名畑氏の原稿から引用すると、


「時計師ペルレの存在を知ったのは80年代の終わり頃、私がスイス・シイベルヘグナーに勤めていたころです。~中略~。ペルレは時計史に詳しい人の間では有名でしたが、一般にはあまり知られているわけではありませんでした。しかし、調べれば調べるほど興味がわいてきて、私は彼に夢中になってしまったんです。私は新しい時計ブランドの候補として、『ペルレ』を推しました。しかし、さまざまな理由からシイベルヘグナーはこの計画を中止してしまったのです。残念に思った私は、会社をやめ、さらにペルレの研究を重ね、ペルレ・ブランドの復活を目指したのです」(ジャン=マリー・シャラー氏。『世界の本格腕時計大鑑 1998-1999』徳間書店刊)

 先に引用したペルレ復活の一連の出来事は、ジャン=マリーがスイスのシイベルヘグナー在籍時代の話だ。彼がスイスのシイベルへグナーを退社したのは1993年。その翌年の1994年にペルレを立ち上げた。まだ34~35歳の頃だ。歴史に埋もれた時計師を発掘し、現代に蘇らせる。その手法から名畑編集長は「彼はジャン-クロード・ビバー氏の門下生だ」と言う。これはビバー氏が1982年にブランパンを復興させた一連の出来事から、彼が学んだことを指す。「ルイ モネ」もまた然りだ。さらに彼は稀有なアイデアマンであり、1998年のペルレの新作「ルイ・フレデリック・ペルレ・スプリットセコンド・クロノグラフ」では限定100本、すべて異なる100種類のダイアルを用意するという、誰も考え付かないようなアイデアを発表した。

 ちなみにルイ・フレデリック・ペルレとは、アブラハム-ルイ・ペルレの孫で、前出の限定版は、彼が1823年にスプリットセコンド・クロノグラフを開発した歴史にちなんだモデルである。

 その後、ジャン=マリーは1998年にペルレを退職し(我々の取材後だった)、翌年の1999年に国際的コンサルタント「メンタルフルーツ」に入る。彼も我々も40歳を迎えようとしていた。「メンタルフルーツ」とは、従業員の業務におけるメンタルサポートを行うコンサルタントである。あれは確か1998年か1999年の冬の季節だった。ジャン=マリーは単独来日し、日本の知己に「メンタルフルーツ」の活動内容の説明を個別に行った。品川で彼と会った私は「(活動内容の)必要性は認めるけど、日本は未だその時期には来ていないよ」とつれない答えをした。日本の企業において心を病む社員が表面化し、企業のメンタルケアの必要性が高まったのは、それからすぐ先の21世紀に入ってからのことだ。私の返事に、彼は少し残念そうな表情を浮かべた。

「この後、どうする?」と打ち合わせの後に尋ねると、「革の空軍用ボンバージャケットを探そうかな」と言う。そう言えば、当時彼はミリタリー・クロージングにも興味を持っていて、ロンドンでも購入したか探したことがあった。そこで東京・御徒町の中田商店へ連れて行った。お店を出た後はひとりでこの町を廻ると言う。「この町はごちゃごちゃしていて道に迷うよ」と言うと、「バザールと思えばなんてことない」。確かにトルコのイスタンブールやインドのデリーに比べればね、と思い我々は別れた。彼は悠然と人混みの中に消えて行った。


 次に彼を見掛けたのは2000年か2001年のバーゼルの会場。Hall 1.0の1階の奥にブースを構えていたラコステのエントランスに立っている彼を見て、「ラコステ? なぜだろう、彼には似合わないな」と私は思い、あえて声は掛けなかった。実際に声を掛けたのは大阪・旭時計店社長の三島麻佐男氏である。おそらく私と同じ思いだったのだろう、「おまはんは、こんなトコにおる人間やないでぇ!」とかなり説教をしたらしい。ジャン=マリー、41~42歳。メンタルフルーツ(1999年~2000年)からラコステ(2000年~2001年か2002年)の彼を、私は「雌伏と準備の時代」と呼ぶ。暗中模索をしていたかもしれないが、このままで終わる人間ではないと私は思っていた。半分は希望だったが。

 しかし、希望は叶えられた。2000年、彼は時計師ダニエル・ロート本人から時計師ルイ・モネの名前を知る。興味を持った彼はペルレの時と同じように、徹底的に調査し、商標を8000スイス・フランで入手し、再興プロジェクトを開始。その時は融資を引き受ける銀行も投資家もいない中、彼は70カ国以上何百人ものコレクターにアプローチし、ルイ・モネの生涯や遺した作品、資料を渉猟する。そして2004年、45歳の頃に独立系ブランド「ルイ モネ」を創設した(以上、ジーエムインターナショナルの資料より)。

 そのルイ モネの日本導入が決定したのが2009年、その翌年、さっそく私と名畑編集長はバーゼルのHal 1.0の2階に向かった。かなり小さなブースに「LOUIS MOINET(ルイ モネ)」と掲げたボードと、そこにジャン=マリーがいた。ペイズリー柄のスタンドカラーのジャケット着た彼は、微笑みながら我々を迎えてくれた。ヨウジヤマモト時代から、彼はよほどスタンドカラーが好きなのだろう。1995年にペルレのブースを訪れた時と変わらず、彼はルイ モネの説明をしてくれた。その後、毎年バーゼルでジャン=マリーと会うことが恒例となり、2023年2月には彼にとっては何度目かの来日を果たした。日本では未だ新型コロナのパンデミックによる入国規制と自粛が進行中の頃である。事前にインタビューを申し込んでいた我々は、2月27日(月)、インタビューの現場であるジーエムインターナショナルを訪れた。同社のミーティング・ルームのドアを開けた時、長年の苦労が顔に滲み始めつつも柔和で、「また来たね」というような少し照れた笑みを浮かべた彼の顔が真っ先に目に入った。

 前述のように、ルイ・モネの存在を教えたのはダニエル・ロート氏だが、それを丁寧に徹底的に掘り起こしたのはジャン=マリーである。「それは彼が僕を呼んだのだと思います」、つまりルイ・モネに「呼ばれた」と思うほどの出会いだった。

 2023年2月27日のインタビューでは、続けてこのように述べる。


「やがて、ルイ・モネの業績を掘り起こし再生することについての思いが次第に強くなり、それは私の運命だと感じるようになったのです。しかし、簡単ではありませんでした。一時は、なんて馬鹿なことに手を出したのだろう、とさえ思いました。

 なぜなら、ルイ・モネの業績は忘れさられていて何も残っていなかったのです。その事実に直面したときには後悔さえしました。でもなんで2000年の時点でルイ・モネが完全に忘れ去られていたかについては大きな不思議でした。彼は時計界に大きなヘリテージを遺したはずなのに、それがゼロだったのです。ですから私の最初のミッションは、その彼のヘリテージを調べることでした」(前述)


 ついに彼はペルレを超える時計師を発見し、その名の再興を成功させたのである。2023年2月27日のインタビューの時、彼の表情から長年の想いを成就させたかのような達成感、満足感が溢れていることを私は感じ取った。

 これが我々の、本当に最後の顔合わせとなった。

 ジャン=マリー・シャラーは稀有なアイデアマンであり、歴史家であり、驚くべき集中力で自分のアイデアをとことん掘り下げる人物だった。時計事業者としては、その存在を知る人はスイスでもほとんどいない、歴史に完全に埋もれていたルイ・モネを現代に復活させた功労者である。なによりも、柔和で優しい表情でゆっくりと我々に話をする彼の姿が、今でも記憶に残る。詩的な人でもあった。


 ジャン=マリーさん、あなたがいなくなった後の時計界は、少しつまらないような気がする。


文:田中克幸 Text:Katzuyuki Tanaka




構成・文:名畑政治(TOP,P.1-P.2、P.4)、田中克幸(P.3) / Composition, Report&Text:Masaharu Nabata , Katsuyuki Tanaka



INFORMATION

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株式会社ジーエムインターナショナル
〒110-0008 東京都台東区池之端1-6-13境会館2階
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